我能く人を愛すれば、人また我を愛す
先日大阪からの帰りに新幹線の車内で、JRの車内誌「WEDGE」を読んだときに、ある記事に目がいきました。
少し長くなりますが、お付き合い下さい。
前文です。
「古典を開く 経営を拓く 22」 舩橋晴雄
「我能く人を愛すれば、人また我を愛す」
伊藤仁斎は、生涯「仁」と「愛」の研究を重ねた江戸時代前期の儒者である。
彼は人間関係の基本にあるのは愛(まごころ)であり、そこから生じる行為でなければ「考」や「忠」も形式化すると強調する。
翻って現代に目を向けると「人間尊重」の経営と声高に叫びながら、組織管理や経営指標の改善ばかりに没頭している姿が少なからず見られる。
今こそ経営者は、経営とは人を動かすことであり、真心を持って部下にあたらなければならない、という原点に還るときではないだろうか。
(SEPTEMBER 2006 WEDGE)
記事の抜粋です。
経営者とは、人の上に立つ者である。人の上に立つ者は、人を動かすことが出来なくてはならない。人を動かすには、いろいろなやり方があり、大きなエネルギーも費す。しかし、人を動かすのに最も根源的なものは、その人に対する愛情だろう。
ここでいう愛情とは、その人の人格を認め、長所を伸ばし短所は抑え、その人の成長を願って育み慈しむ心である。人の上に立つ者にその心があれば、自然と人はその人の下につくのである。
愛情の持つ力に、経営者は無関心であっては、ならないと思われる。
仁斎が生涯考え抜いたことは、その号にある通り、「仁」ということである。
【心の底から愛さなければ「忠」や「考」も実がない】
まず「仁」とは、「人道の基本であり、すべての善が集まるところだといっている。人を慈しみ愛する心が、全身を貫くように満ちあふれ、周りにあまねく行き渡っている。そして少しも人に対して残忍酷薄の心がないことが仁なのである。
得は人を愛するより大はなし。
「我能く人を愛すれば、人亦我を愛す。相親しみ相愛すること、父母の親しみの如く、兄弟の睦まじきが如く、行こうとして得ずということなく、事として成らずということなし。」
「仁は畢竟相に止まる。愛は実得なり。愛に非ざるときは即ち以て其の徳を見ること無し。」
仁斎がこのように愛を強調するのは、それが外に対して他者の行動として表れるからである。心に思っているだけでは充分でない。そしてただ形式だけの孝とか忠とかは、実のないものとして否定される。
この仁を基本とする立場からは、例えば理屈ばかりいって人を断罪しようとすると、「残忍酷薄」の心が勝って、人の悪を抉り出すようになっていくものだ。こうなれば下の者は必ず傷つき、かつまた人心が上に立つ者に心服することはないのだ。
この「残忍酷薄」に対是されるのが「寛裕仁厚」である。ゆったりとくつろぎ、なごやかで情があるという意味だろう。
仁斎が強調したかったことを経営者の立場に立っていいかえると、上に立つものにとって大事なことは、この「寛裕仁厚」の心、愛の心を持って、それぞれの人間が生まれながらに持っている個性を尊重し、人の長所を伸ばし、人と人との組み合わせを熟考することによってチームワークを生み、一人ひとりが成長していく組織を作り上げていくことだということだろう。
この心持ちを仁斎は「長者の気象」といっている。
数字や指標が無益だと思わないが、すべからく経営者は「長者の気象」を持ち、「仁」の力、人を愛することの力を見失ってほしくないものである。
全文を掲載できないので残念です。
でも現代社会においては、非常に大切なことが書いてありました。
まさに愛(まごころ)が大切なのです。
chika-chanの事務所の経営理念に通ずるものを感じました。
「自利トハ利他ヲイフ」
私たちは、地域を愛し、社会に貢献します。
私たちは、人を愛し、真心を育てます。
私たちは、仕事を愛し、自己を磨きます。
これをただ単に、朝礼で唱和するだけでは意味がないのです。
本当の愛を持って生きていくことの重要性を解って欲しいですね。